川嶋の祖父も当時は戦争に行っていました
8月15日の今日は「終戦の日」ですね。
【終戦の日とは?】
第二次世界大戦終戦は1945年。8月14日にポツダム宣言を受諾し、
翌日の15日正午に大東亜戦争(太平洋戦争)における日本の降伏を
国民に伝えた玉音放送があったことから。
個人的に終戦に「記念日」って言う言葉を使うのに気が引けるのは私だけですかね?
「記念日」ってもっとハッピーな事に使いたい感じがします。
ちなみにNHKが全国の18歳と19歳を対象に行った世論調査によりますと、日本が終戦を迎えた日について、14%が「知らない」と答えたそうです。
[blogcard url=”http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170809/k10011094771000.html”]
どんどんそうなるだろうなーっと想いますね。ボクも70年以上前に起きた戦争とか、分かんないですし。
コレは今年の4/30にやっと行けた原爆ドームの写真。
一度はこの目で見ておきたかったのです。
そんな今年で72回目の「終戦の日」の今日は、今は亡きじいちゃん・ばあちゃんを思い出します。
祖父はとても厳しく、近寄りがたい存在
祖父・川嶋静(しずか)は、川嶋が二十歳の頃に他界しました。
そんな祖父との子供の頃の思い出って、正直あまりないんですよね。。。
遊んで貰ったり、どこか連れてってくれたりとか…多分一度もないです。
厳しかった祖父とは対照的に、祖母(トンメ)はいつも優しかったですね。
夏はマクワウリを剥いて、孫によく食べさせてくれました。
祖父との思い出と言えば…
小さい頃に近所の友達と川でフナや鯉を捕りに行ってたら、錆び錆びの自転車に乗って「コラーッ!こんな川で遊んだらアカン!!」って、めちゃくちゃ怒られた事は何度もありましたが(泣)
すごい怖いんですよ、怖かったんですよ…じいちゃん。
でも先日の帰省で母から聞いたんやけど、ひ孫には夏でも汗だくでベビーカーを押して散歩させたり遊んだりしていたとか…
孫とはあまり遊んでくれなかったのにね、なんでやねん じいちゃん(涙)
そんな祖父母が一度だけしてくれた戦争の話
同じ家に住みながら、食事する場所も生活空間も違った祖父と祖母なので、会話もそんなにした覚えがありませんでした。
でも一度だけ、中1の時に戦争の話をしてくれたんですよ。
その時の事を今でも覚えています。
川嶋一家は祖父が戦争に行っている間、祖母は
父の兄弟3人(当時は3人、その後2人生まれる)と福井市に住んでいました。
全国的にはあまり知られていないのですが、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月19日の午後11時24分〜翌日午前0時45分にかけて、福井市でも米軍により行われた福井空襲(ふくいくうしゅう)があったんです。
【福井市における戦災の状況(福井県)】
http://goo.gl/5Wbhj7
福井大空襲とも言われたりします。
この空襲の時、祖母がまだ産まれて間もない五ヶ月の川嶋の父・整(おさむ)を抱えながら、父の兄弟を連れて山の方へ走って逃げたおかげで助かったんです。(その後武生市へ移住)
祖父も、当時フィリピンでの激しい銃弾戦の話を熱く語ってくれました。
飛び交う銃弾で穴だらけのフィリピンの空港…それはまさに極限状況だったと。
その時祖父は膝に銃弾を受けてしまい、その後治療中に終戦を迎えたようです。
なので祖父の足は銃が貫通した影響で、ボクが物心ついた時から両足の長さが違いました。
戦争から無事 家族の元に生きて帰ってくれた事、72年後の今日もびっこを引いて歩いていたおじいさんを思い出します。
最後に
戦後教育を受けた日本国民であれば、誰しも戦争に対して思う事はあるかも知れません。
ボクは戦争を美化したりはするつもりはありませんが…ただ一つ、世界中の人が国をまたいで、安全かつ自由に旅行が出来るような世の中になって欲しいなって思います。
それこそが「平和」な状態なんじゃないかな?
今まさにグアム(米)と北朝鮮の間で騒がれていますが、コレで潤う人も出てくるでしょうが 宿泊やそれに伴う観光産業は大打撃でしょう。
ミサイルを飛ばす事よりも、国民を世界中に安全に行き来出来るような国であって欲しいなと、終戦の日に改めて願います。
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